脳は「ちょうどいい混沌」を知っていた――量子科学が学ぶ、生命の知恵

黒い砂浜に白い波が打ち寄せる波打ち際

秩序でもなく、混沌でもない。そのあいだのどこかに、脳の本当の力が眠っているとしたら――。

脳の働き方を、量子センサーの手本にする

2026年8月24日、米ワシントン大学セントルイス校が、アルゴンヌ国立研究所と組んだ新しい研究プロジェクトを紹介しました(大学発表)。生物学者のキース・ヘンゲン氏と物理学者のホイットニー・アームストロング氏が中心となり、脳の働き方を手がかりに量子センサーの精度を高めようという試みです。米エネルギー省(DOE)の「ジェネシス・ミッション」から75万ドルの助成を受け、「臨界性近傍における超伝導ポリクロナス計算」と名づけられています。

ヘンゲン氏が注目しているのは、脳科学で「臨界性(クリティカリティ)」と呼ばれる状態です。システムが完全な秩序(一糸乱れぬ規則性)にも、完全な混沌(無秩序なランダムさ)にも偏らず、その中間の絶妙なバランス点に位置している状態を指します。脳内では、神経細胞の活動がこの臨界点の近くで揺れ動いているとき、情報処理の能力が最大になることが、これまで多くの研究で観察されてきました。いわば脳は、秩序と自由のあいだの「際(きわ)」に自らを調整することで、最適な思考や学習を実現しているというわけです。

研究チームは、この原理を「超伝導ナノワイヤ単一光子検出器」と呼ばれる量子センサーに応用しようとしています。極低温に冷やした極細の超伝導ワイヤに光の粒(光子)が一つ当たるだけで電気信号が生まれる、きわめて感度の高い検出器です。この検出器を網の目のようにつないだ回路を臨界点の近くで動かすことで、検出の精度を上げながら消費エネルギーを減らし、複雑な計算問題の解決に役立てることを目指しています。興味深いのは、脳を専門とする生物学者と量子デバイスを専門とする物理学者が、まったく異なる分野から同じ一つの原理――秩序と混沌のあいだのバランス――に行き着いた点です。生命が何十億年もかけて磨き上げてきた「ちょうどよさ」を、人類最先端の技術が手本にする。それ自体が、静かに胸を打つニュースだと感じます。

「臨界性」と「量子脳理論」は別の話

ここで一つ、整理しておきたいことがあります。今回の研究が扱っているのは、神経活動の「臨界性」という、比較的よく確認されている現象です。「脳の中で量子力学的な効果が働き、それが意識を生み出しているのではないか」という、いわゆる量子脳理論とは別の話であり、こちらはまだ結論の出ていない仮説の段階にあります。「脳」と「量子」という言葉が並ぶと混同しやすいのですが、今回のプロジェクトは脳の中に量子現象を探すものではなく、脳の「バランスの取り方」を工学に応用するものです。

秩序と混沌のあいだに、知性は宿る

はっきりしていることもあります。秩序と混沌のあいだにこそ知性が宿るという原理が、脳という一つの生命システムの中で確かに機能しているらしい、ということです。これは私たちの生き方にも、静かに問いを投げかけてくれます。

私たちはつい、物事を完璧に管理しよう、予定どおりに進めようとして、自分をがんじがらめの「秩序」に押し込めてしまいます。反対に、情報やタスクに追われて、心が落ち着く暇もない「混沌」の中で消耗してしまうこともあります。けれど、地球上でもっとも精巧な情報処理システムである脳が選んでいるのは、そのどちらでもない、しなやかな中間地点でした。

ASI(人工超知能)の到来が語られるこの時代に、人間にしかできないことがあるとすれば、それはこの「際に立つ感覚」を自分の内側に取り戻すことなのかもしれません。演算の速さや正確さでは人工知能に及ばない領域が増えていくとしても、秩序と自由のあいだで揺れながら整い続けるという生命のあり方そのものは、人間が長い進化の中で培ってきた知性のかたちだと思います。地球という一つの生命系の中で、私たち一人ひとりの脳もまた、森や海岸線のように、秩序と自由のあいだで呼吸をしている存在なのだと思うと、少し肩の力が抜けるような気がします。

今日からできる小さな行動

まず、深くゆっくりとした呼吸を、一日数分でも意識してみることです。吸う息と吐く息のあいだに小さな静けさを置くこの呼吸は、脳教育の実践でも大切にされてきました。次に、予定を詰め込みすぎず、あえて何も決めていない「余白の時間」を一日のどこかに置いてみることです。管理と自由のどちらか一方に偏らない一日をデザインしてみる、というイメージです。スマートフォンやニュースから離れて自然の中を短く歩き、木々や波の揺らぎをただ眺めてみるのもよいでしょう。規則正しく、けれど一つとして同じ形のない自然のリズムは、臨界性そのものの姿とも言えます。

最後に、一日の終わりに「今日、自分は秩序に寄りすぎていたか、混沌に流されすぎていたか」と、一言だけ振り返ってみてください。正しい答えを出す必要はありません。ただ気づくことが、脳が本来持っているバランスの力を、少しずつ思い出させてくれるはずです。

科学の最前線が、生命に、そして脳に学び直そうとしている今、私たちもまた、自分自身の内側にある知恵に、あらためて耳を澄ませてみたいと思います。

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