開発でひとつの森や湿地が失われるとき、別の場所で同じだけの自然を「つくり直す」ことで差し引きゼロ、あるいはプラスにしよう ― こうした考え方は「生物多様性オフセット」や「ネットゲイン(純増)」と呼ばれ、いま世界各国の政策に取り入れられつつあります。
「埋め合わせ」は、どんなときに本当に効くのか
その「埋め合わせ」がどんな条件のもとで本当に機能するのかを検証した研究が、2026年7月17日、生態学の専門誌『Conservation Biology』に発表されました(Wells ほか、DOI: 10.1111/cobi.70362)。英国スウォンジー大学のコンスタンス・ウェルズ博士らが、英国生態水文学センター(UKCEH)や森林研究所と共同で行ったものです(スウォンジー大学プレスリリース)。
研究チームはコンピューターモデルを使い、生息地が「遷移」(時間をかけて成熟していく変化)と「移住」(生きものが新しい場所へ移り、定着していく過程)を経て回復していく様子を長い時間軸でシミュレーションしました。そこから見えてきたのは、オフセットが成功するには少なくとも四つの条件が要るということです。すなわち、①つくり直す面積が失われた生息地より大きいこと、②長期にわたって保護が続くこと、③自然が失われていく速度そのものが速すぎないこと、④回復のための土地が十分に残されていること、の四つです。
研究が繰り返し強調するのは、ひとつのシンプルな事実です。新しくつくった生息地は、成熟した生態系をすぐには置き換えられない、ということ。ある生態系に依存して生きる種は、その生態系が回復するまでのあいだ「避けられない生態的な赤字(ecological deficit)」を抱えることになります。プレスリリースの言葉を借りれば、生態系の回復は「数十年という時間をかけて進む」もので、短期間の見かけ上の増加だけでオフセットを評価するのは実態に合わない、というわけです。
ここで、事実の性質を分けて確認しておきます。「成熟した生態系はすぐには再現できず、回復には長い時間がかかる」という点は、生態学で広く確立された知見です。一方、「どれだけの面積と年数があればネットゲインが現実に達成できるか」という具体的な設計は、今回のモデル研究が示した有力な提言であって、各国の現場で長期に実証されたわけではありません。ここは、これからの検証にかかっている段階です。
これは、わたしたち人間に何を意味するのか
Good Brain News が大切にしている「地球市民意識」とは、一人ひとりの脳と、その脳が下す選択が、地球という大きな生命とつながっている、という視点です(これは科学的事実の主張ではなく、わたしたちが提案する見方・ビジョンです)。
この研究は、その視点にひとつの時間感覚を加えてくれます。わたしたちの脳は、目の前の損得や、今年・来年といった短い時間を測るのは得意です。けれども自然の回復は、数十年という、わたしたちの直感よりずっと長いリズムで進みます。「壊しても、あとで埋め合わせればいい」という発想が危ういのは、まさにこの時間差のためです。埋め合わせが追いつくまでのあいだ、赤字を負うのは、声を持たない生きものたちだからです。
だからこそ研究者たちは、オフセットよりも前に「そもそも失わないこと(habitat loss avoidance)」を優先すべきだと指摘します。これは環境問題に限った話ではないかもしれません。壊すのは一瞬、育て直すのは数十年 ― この非対称を思い出すことは、わたしたちが日々の選択の重みを測り直す、静かな物差しになります。一人ひとりの「今日の選択」の総和が、数十年後にどんな森や湿地が残っているかを、少しずつ形づくっていくのです。
今日、できる小さなこと
大きな政策を動かすのは簡単ではありません。けれども、脳の見る時間軸を少し伸ばすことなら、今日から始められます。
まず、身近な緑地や街路樹、公園の一角に、一分間だけ目を向けてみてください。「この木がここまで育つのに何年かかっただろう」と想像してみる。それだけで、自然の時間のスケールが少し身体に入ってきます。次に、開発や再生のニュースに触れたとき、「埋め合わせる」という言葉が出てきたら、“回復には数十年かかる”という今日の視点を一度あてはめてみる。最後に、気になったテーマは、報道の要約でとどめず一次情報(論文・研究機関の発表)にあたってみる。数字やニュアンスを自分の目で確かめることは、地球市民としての、いちばん確かな一歩です。
失わないこと、そして、待つこと。 ― 数十年先の風景は、わたしたちの脳が今日どこに目を向けるかから、静かに始まっています。
参考情報
- 論文(Conservation Biology, Wells et al., 2026年7月17日):https://doi.org/10.1111/cobi.70362
- スウォンジー大学プレスリリース(2026年7月):New study defines conditions for successful long-term biodiversity net gain
