最近、ますます一般的になってきた瞑想。日本ではいつから瞑想が取り入れられていたのでしょうか?日本の瞑想の草分けの一人と言われているのが、聖徳太子です。法隆寺にある殿堂「夢殿」。聖徳太子はここで瞑想にふけったといいます。大正から昭和に活躍した哲学者、和辻哲郎は夢殿の救世(ぐぜ)観音の微笑について「瞑想の奥で得られた自由の境地の純一な表現」と解説しました。夢殿のような歴史的な寺院や遺跡は、瞑想という行為が、昔から日本に存在していたことを示しています。
江戸時代には、徳川家五代将軍・綱吉の時代の禅僧、白隠慧鶴(はくいん・えかく)が独自の瞑想法を説きました。その一つは、あおむけに寝た状態で、地球の重力のままに身体をゆだね、宇宙に一切をゆだねるというものでした。現代の日本ですっかり一般的になったヨガの「シャバーサナ」にも通じる内観法だといえます。
瞑想が日本のビジネスパーソンの自己啓発として注目されるようになったのは、20世紀の後半からです。その一つの顕著な動きとして、故中村天風の瞑想哲学が実業界で注目を集めるようになりました。ヒマラヤでのヨガ修行による悟りから生まれた「天風哲学」です。
天風は1876年の東京生まれ。若いころから陸軍情報要員として活躍しました。しかし、30歳くらいのころ重い肺結核をわずらい、治療法を求めてアメリカ、さらにイギリス、フランスへと渡ります。病気が治らずに失意のまま帰国する途上に立ち寄ったエジプトで、インドから来ていたヨガの導師に出会います。最後の望みをかけて、導師の拠点であるヒマラヤに移り、ヨガと瞑想の修行をスタート。雪解け水の中で瞑想を続けるといった激しい修行を経て、悟りに到達。ついに結核を完治させました。
帰国後実業界で成功したものの1919年以降、「最初の平民宰相」原敬らの知遇を得て、「天風哲学」の普及に専念します。病苦と人生の悩みにうちかった経験をふまえ、他の人々の救済も願って、日本で瞑想法の普及に取り組みます。1968年、92歳で他界しました。
その教えは戦前から政、財界などの一部で支持されてきましたが、1990年代ごろになると、一般サラリーマンや若者の間でも学ぶ人々が増えました。高度経済成長とバブル経済の時代が終わり、時代の混迷を背景とする自己啓発ブームの中で、「心のすきまを埋める本物の教え」と評価する人が出てきたのです。
21世紀になると、より身近な健康法・美容法としてヨガが普及するようになり、その一環として瞑想がさらに定着しました。専門のヨガ教室だけでなく、スポーツジムやカルチャーセンターなどでヨガレッスンが一般的に行われるようになり、瞑想は特別な存在ではなくなりました。